本題にもどります。
おばちゃんが突然不動産屋になった訳。 ですが・・・。
飛び込み営業をしただけで不動産屋になれるわけではありません。
昨日まで畑違いの仕事をしていたお兄ちゃんが急にスーツを着て不動産屋デビューしているのを良くみます。
しかし、不動産屋になる為には どんなリスクも回避出来るスキルが無ければこの看板をあげることはできません。
車だって免許が無ければ運転できません。
不動産だって、最低 宅建士の免許位無ければ それで生きて行く事は難しいでしょう。
宅建の免許を取っただけで自慢している人もいますが、それもやっと不動産屋としてのスタートを切ったばかりです。
飛び込み営業は私にいろんな事を教えてくれましたが、 長くは続きませんでした。
挫折!・・・です。
嬉々として勤めあげている無冠のおばちゃんたちに惨敗しました。
数か月の後に、300万円程度の仲介料を頂き、丁度自宅の新築をお願いしていた不動産・建築の会社に拾って頂き 這う這うの体で退職しました。
私の社会人としての本当のスタートはこの地元の会社から始まったと思います。
すでに40代も半ばに差し掛かっていました。
自宅の新築と初めての営業、そして木の香りに包まれての新築現場。水を得た魚の様に働きだしました。絶対向かないと信じていた営業職が、意外と向いていたことにぼちぼち気が付いてきていました。当時女性の建築営業も珍しかったとおもいます。
トンネルの先に明かりが見え始めたこの頃。
記憶の中で消えかかっていることや、忘れようとしていたことで年代の感覚がずれていることがあります。
思い出そうとしているのですが、思い出せずに混乱します。自分を守るために記憶障害を起こしているのでしょう。
この頃、夜間学校でお会いした学校の事務室に「辻さん」、と言う人がおりました。
途中から会えなくなりましたが、大きなターニングポイントです。
母の余命宣告を受けて、仕事と学校 家庭を顧みない生活も限界に達したある日、「母の介護をしたい。 もう限界です。学校をやめます。」と。
何か記憶の中で、寒い日の帰りの夜でした。
コンクリート玄関の下駄箱の前で、辻さんに泣いてつげた記憶があります。
私よりずっとお若い辻さんについて私は何も知りません。
しかし、真っすぐな誠実な人柄は見て取れる人でした。
授業中も遊び半分な若いお兄さんたちを、真剣に叱ることのできる唯一のひとです。
「あなたが夢を諦めて、お母さんの介護をすることが本当に親孝行なのか」と滾々と語ってくれました。
「本当の親孝行は 合格した姿をお母さんに見せることではないのか」と。
苦しい苦しい選択でしたが、この時諦めていれば建築士にはなっていません。
起業することもなかったとおもいます。
辻さんは、間もなく学校を去っていきました。
司法試験に挑戦するために ・・・。
働きながら、それぞれの事情を抱えて勉強している皆さんに、励ますだけでなく自分も頑張ってみたい。 とそんな事をおっしゃっていたように記憶します。
辻さんは私の事は全く覚えていないと思います。
しかし私の記憶に残った辻さんは、大きな大きな人生のターニングポイントでした。