designershome’s blog ~デザイナーズホーム~

専業主婦から不動産・建築の会社を起業したおばさんの話

戦後に見た風景

77年目の終戦記念日に寄せて 色んなブログやツイッターを読みました。

 

アメリカに無条件降伏をして 婦女子が大変なことになると 自決を覚悟した。

と言うお話。

 

私の母は 元来ノー天気な昭和5年生まれの 終戦時には多分15~6歳だったと思います。

女子挺身隊で 女学校はほぼ休校状態。  毎日軍事工場で お蚕から 落下傘のパラシュートを作っていたそうです。

終戦の時に思った事は ・・・「あ~これで 工場に行かなくても済む。  防空壕に入らなくても済む」   とほとんど何も考えていない能天気女学生だったようです。

 

東北の山村には 終戦の恐怖・・・と言うより 戦争に行った何処どこの誰さんが復員して来たとか、 何処どこの誰さんは戦死したとか 村は噂で持ち切りだったようです。

 

すでにタラワで戦死していた  長男に代わって 母が お婿さんを取って 私が生まれたのですが・・・父も又 復員してきた海軍の兵隊さんでした。

 

男子が戦死して 年寄りと女性だけの一家に頼もしいお婿さんが来た・・・・!

祖母は大変喜んだようです。

 

当時の狭い村にも  悲喜こもごもで こんな 悲しい定めの一家もありました。

親しくしていた 一軒の農家に生まれた物語です。

 

村一番の長者様の家で 重鎮の格式の高いお宅です。

そこの跡取りの 家長さんは 、何故かいつもお手伝いさんと一緒に行動をしていました。 ほぼ奥さんと代わりなく私の両親ともとても親しく行き来していましたが、そのお家に行くと 何故か離れにいつも閉ざされた部屋がありました。

 

奥様が住まわれていると言うのに 何故か私は見たことがありません。

幼い子供ながら  とても不思議で 母に「どうして あのお家はお母さんが離れに居るの?」・・・と聞きました。

いつも 旦那様と一緒にいる人は何なの?・・・と

 

母は「 難しい事だから まだ お前にはわからないの。」

と言いました。

しかし、 この旦那様は村ではとても悪い人・・と言うレッテルを貼られていたようです。

近隣では誰も相手をする人が いない程の 悪い人・・・。

でも とても 優しくて ハンサムで 代々続く庄屋様の家です。

 

私の事もとてもかわいがってくれました。

私も大きくなるにつれ なぜこの庄屋様が悪者にされているのか 少しずつ状況が見えてきました。

 

実は この家の長男は 出征して新婚の奥様を残し戦死してしまったのです。

昔からの習わしで 長男が亡くなった場合は次男が この嫁を貰い 財産が散在するのを防ぐ・・と言うのがありました。

大金持ちが考えそうなことです。

しかし 奥様は新婚でご主人を亡くしたのです。

ならば、次の息子と結婚しろ。と言われて ハイ分かりましたと言えるはずもなく・・・。

間もなく精神のバランスを失い 部屋に閉じこもってしまったようです。

次男の庄屋様は 寂しい青年期を過ごし 自分の身の回りの世話をしてくれるお手伝いさんを次第に愛してしまった様でした。

(因みに ここには 私と同じ年齢のカッコいい男の子がいました。

これは正妻との子供です。)

 

これを世間では 女たらしのニヤケた奴と 罵って意地悪をしていたようです。

昭和もだいぶ進んだ ある日 ・・・。

私の母は 私と同じで 空気を読みません。

お茶のみの軽い会話で・・本人に、なぜ 女たらしと言われているのか・・どう思っているのか。・・・と突然切り出しました。

 

その時に 庄屋様は ニッコリ微笑んで ・・・「人間 誰でも向こう岸は良く見えて評論するけれども 手前岸はみえないものですよね~」・・・と言いました。

 

他人の評価を気にしてもしょうがない と言う一言でした。

 

戦争の悲劇は これに留まらず この私と同じ年の長男は お嫁さんを貰って 子供も出来たと聞いた 何年後かに 風の噂で 自らの生涯を終えてしまったと聞きました。

庄屋様の嘆きはひとしおでしたが どうやら 原因の一つに 一家に父の妻妾同居の苦悩があったと聞きました。

 

私達一家は もう地元を離れ 一家離散していましたから 何もしてあげることは出来ず 只 風の噂に心を痛めるばかりでした。

 

最後に 庄屋さま に会ったのは 私が 両親と別れる事になって学校の寄宿舎に引っ越しをするとき 寄宿舎迄 引っ越し荷物を運んでくれた時でした。

 

ニッコリ笑って 手を振って送り出してくれました。

私も両親と離れ離れになって 一家そろって 見知らぬ土地でやり直すことになりましたが ・・・最後に見た 懐かしの故郷の風景でした。