元来怠け者の私が現在建築・不動産に関わりそれで生計を立てるようになるにはやっぱりふか~い事情がありました。
37歳迄の私の人生は 幼い頃から波乱の半生でしたが基本私のせいではなく・・・。
父親の事業が倒産に追い込まれ両親と生き別れた寂しい17歳のころ。
兄のアウトローの人生に巻き込まれた恐怖の道連れ20代。
それでも 平凡なサラリーマンの夫との暮らしは貧しくともそれは平穏な毎日でした。
ゼネコンの技師だった夫は、サラリーマン人生に生き辛さを抱えて、それでも長野・新潟・静岡・北海道と現場ごとに点々と単身赴任を繰り返していました。
ある日海外勤務・しかもエジプトに大きなプロジェクトを抱えている会社から転勤命令がでたのです。
それは出世コースなどでは決してなく。。。
一係員としての穴埋めでしかありませんでした。なぜなら交代で帰ってくる人の中には
空港から病院へ直行というのは珍しくなく著しく健康を損なう仕事だったようです。
さすが喜怒哀楽のない夫にとってもショックは隠しきれず、思わず・・・「会社やめていいかなあ・・・」
私はといえば、現地と家族にお給料が2重に出ると聞いていましたので 「どっちみち今までも単身赴任なんだから、行っておいでよ~」と・・ノリノリだったような記憶があります。
まあ泣く子と夫には勝てず 結局13年勤務したゼネコンを退職する運びとなってしまいました。
まあ・・・一息つきましょう。
ふ~・・・。仕上がった現場を見ていると心が癒されます。
私は今 男性社会の真ん中で人生のほとんどを過ごしてきました。
男女同権 女性も男性に翻弄されずに生きる権利があるなどと良く聞きます。
68年間生きてみて でも、でも。 やっぱり女性は男性に翻弄されて生きざるを得ない場面は必ずやってきます。
紆余曲折あった中で、夫は東京で仲間と何かやり慣れない事業を起こすという。
時はバブルの真っ最中。
何がどうなったのか、アルマーニーのスーツにベンツ。電話が付いている上にお尻は
ヒーターが付いていてまるで、どこぞのお金持ちの奥方のように助手席に座って、う~ん・・・なんか違う❣と違和感を覚えてもその時の私にはどうすることもできず。
まあ船は出てしまった感じですかね~。
時に大金をもって来ることもありましたが、半分は本人の経費とやらで、大したパットした生活も出来ずに約2年。
後半は家具に赤紙が貼られた日もあったと、夫亡き後娘たちから聞きました。
私は自分の家の家具の裏側に赤い紙が貼られているのも気が付かないほど夢中で働いていました。
これは大分後の事で夫の会社がダメになるころはまだ私は働いていませんでした。
最初の異変に気が付いたのは、夫が自分の印鑑証明と実印をもって行くようになったことでしょうか。
夫がもし生きていれば、「もう勘弁してくれよ~」と言いそうですがやっぱりこれは私の人生の分岐点でしたので、これを外して不動産の世界に入る事はできません。
そして、そのころ・・・私は夫のある特性に気が付いてしまいました。
後日お話ししようと思いますが・・・私はカサンドラだったのではないか? と
ご存じでしょうか?
のちに私は人生の全てで起こった夫と私の生き辛さの原因の全てを理解してしまいました。
夫にただ事ではない環境の変化が訪れている・・・!
娘はまだ短大1年生と中学3年生受験も控えている。
さて困った・・・すぐに働かなくてはならない。高卒の私は全寮制の農業高校出身で、これといった手に職があるわけでなく食物3級とか(きゅうりの薄切りを一分間に何枚切れるか)毒劇物取り扱い(農薬の扱い)程度の資格しか持たなくて。
何をやるべきか! などと考える余裕もなく当時流行の不動産宅地建物取引主任者・と言う流行りの電車に飛び乗ってしまいました。
まず、テキストを本屋から買って来て2~3枚開いたところで・・・・あ~こりゃだめだ。5分もたたずにギブアップです。
さて学校に入るにもお金がない❣どう見ても最低20万円は掛かりそうだ。 当時は20万円のお金さえも準備できない所迄追い込まれていました。
時は平成2年。 合格率12%の大波の中に怖いもの知らずの私は高利の学習ローンを利用して千葉市の不動産資格取得の学校に1年間入学しました。
本当の苦労のほんのさわりの1年間でした。