毎日 テレビから流れるウクライナの話。
今日は ロシアがウクライナの歴史的建造物迄破壊し始めて居るとのこと。
う~ん・・・。
ロシアって ストーカー親父のようだ・・と 思いました。
別れた女房が もう嫌だ!離婚してほしいと言っているのに、聞く耳を持たず 女房の逃げた先まで追いかけてきて なけなしの家財道具までぶち壊して帰っていく暴力亭主。 まさにこれです。 もう元には戻れないのに・・・。
世間にはこんな男も多いらしいと聞きます。
でも 4年前に亡くなった私の夫は、これとは真逆の人でした。
この一か月の私のブログをご覧いただいた方にはお分かりいただけると思いますが、どの場面にも出てきません。
45年連れ添って いただいた?・・この夫は無色透明で私のどの場面でも出演していただけませんでした。
私の名前はカサンドラ でお話ししましたが、彼はいつもマイペースで誰にも煩わされません。
誰の邪魔もしません。 そして私の孤軍奮闘も趣味でやっていると思っていたに違いありません。
ひたすら 自分の仕事に誠実に向き合い 残った時間は家庭料理に目覚め家族の為にいつも美味しい料理を提供してくれました。
これが彼の愛情の表現だったと今は思います。
亡くなるまでの4年の闘病生活は 長く苦しいものでした。
食道がんが見つかって、その後転移が見つかり苦しい日々でした。
亡くなる20日前から 「終末期鎮静」と言う特殊な薬で言わば安楽死の様なものですが、眠り続けて逝きました。
私は、闘病記などを書こうとは思いません。しかし、45年間の私達夫婦の歴史を一瞬で無かったものにしてくれた 病院のこの失態は糾弾されてしかるべきものだと思います。が、今頃そんな事を言っても自分が苦しいだけです。
先端技術を誇ったこの病院は、「最後に夫を安らかに眠らせてあげましょう。」と言いました。
「夕べは耐え難い痛みが襲って来て、もうこれ以上苦しめるのは得策でない」と。
病室の夫は、さっきはにこやかに笑っていたのに・・・。
夫が余命を宣告されたのはつい二週間前の事で、夫もそれは覚悟をしていました。
自宅で最期を迎えたいとの本人の希望で、私達家族は八方手を尽くし夫を迎える準備をして、正月明けの4日に退院させるつもりでした。
何か月も夢に見た自宅での生活に僅かな希望を持っていたのに・・・。年末の22日の朝、突然主治医からそれを告げられ 不意打ちを食らった私は、医師の差し出した承諾書にサインをしてしまったのです。
「永遠に眠らせる悪魔」の書類です。
勿論人によってはこれが救いとなって安らかに逝ける人もいます。
しかし、これが私を一生苦しめることになってしまいました。
病院では私のサインの書類を、コピーを取って私に返すつもりが、何かの手違いで夫の手に返してしまったのです。 終末期鎮静を使用する事の同意書。
夫に告げずに悪魔の書類にサインをしてしまった私。 泣き顔を見せられずに病室に戻れなかった・・・私の弱さがこんなことになってしまったのです。
恐らく夫は絶句して書類を見たに違いありません。
高速道路1時間の帰り道、どんなふうに帰ったのか覚えていませんが、自宅に帰り着いた頃夫から電話がありました。
「どうして帰ってしまったんだ?。 書類は手元に戻ってきている」・・・
!!!!!。
何たる不始末。これが一流病院のする事か! いや二流病院だったかも知れない。
この一本の電話で45年間の私たちの二人三脚は「終わった!」 と思いました。
12月28日 その日の朝、 病院に辿り着いた私に主治医は「夕べは苦しんでいましたよ。」
「もう耐え難い痛みが来ています。 今日実行します。」 なぜ何も言えなかったのだろうか?
夫は今娘たちと楽しそうに笑っているではないか!
「この終末期鎮静を打てば 通常は2~3日でお亡くなりになります。」
今思えば 年明けは主治医もお正月休みだったのでしょう。助かる見込みのない患者の為に正月を棒に振る事は出来なかったのでしょう。
病室に戻った私の後ろを 看護師さんが付いてきました。
準備されていて 私の到着をまっていたようです。
用心深い夫は 看護師さんの点滴の形が気になったようで、不思議そうに見ていました。
娘たちは父親との残り僅かな時間を惜しんで話し続けています。娘たちにも今ここで起こることは伝えていませんでした。
夫の点滴に 悪魔の薬が投入したとたんに 夫は崩れるように倒れていき・・・眠り続け・・・。
明けて1月11日の午前11時 力尽き果て 天上に旅立ちました。
どこにも別れはあります。
必ず誰にも訪れるものです。
でも、この病院の許されない失態により私は残った人生を悔いて生きることになりました。夫を殺したのは私だ。と
しかし、夫は最後まで笑わせてくれます。
余命宣告をされてから、一度くらいは「長い間 ありがとう。」とか「感謝している」とか、嘘でも言ってくれると思っていましたが。
そうです。私はカサンドラだった !! のです。
最後の言葉は 「ぬか床捨ててくれ!」 でした。
台所を放棄した私の代わりにいつも美味しいぬか漬けを食べさせてくれていましたが、自分が死んだら誰もぬか床の手入れが出来ない と。
最も大切な遺言は 娘たちに伝えられました。
最後まで カサンドラな私でした。