designershome’s blog ~デザイナーズホーム~

専業主婦から不動産・建築の会社を起業したおばさんの話

地上げ屋になった話(1)

取りあえず会社を立ち上げ、ポチポチ仕事も頂いて何とか落ち着いた頃。

 

会社の目の前の不思議な空間が目に付きました。

広~い空き地で、雑木林の様な一団の中に 古い住宅が二軒点在していました。

雑木林と言っても 町のほぼ中心地です。

バブルも経験済のこの土地ならビックリするほどの値が付いたこともあるだろうに・・・。

 

早速謄本を取ってみたら、約800坪程の広さの畑です。

ご存知でしょうが、畑は簡単には売買は出来ません。まあ日本の農産物の自給自足の法則から、農地を簡単に手離せないような縛りなのですがここは市街地です。

なぜこんなに中心地にまとまった土地があるのか。

地主様は、東京近郊に住むお医者様だという事が分かりました。

 

話は飛びますが、 不動産の地上げ屋・・・って聞いたことがありますよね。

バブルの時代に暗躍したその筋の人たちは いわゆる地上げ屋と称して 無理な立ち退きや追い出しの為に手段を選ばず 土地をお金にかえる 言わば 日本の嫌われ者になりました。

専業主婦の頃、おせんべいポリポリかじりながらワイドショーに出てくる地上げ屋を見て不動産やって本当に悪い!...

と勝手に異物を見るようなまなざしで見ていました。

まさか、自分が「あの」地上げ屋になるとは夢にも思わず。ちなみに「あれ」は不動産屋ではありませんでしたが。

 

戻りますが、この地主様。 謄本上のお名前をネットで検索して行くうちにお医者様だとわかりました。

少し気おくれしながらも、丁寧なごあいさつを差し上げて 当社の目の前の土地について売買なさるご予定は有りますか?    と言うような事を書いて謄本上の住所におくったと思います。

 

地獄の底からほんの少し首をもたげたばかりの私に取って、お医者さまなどとは全くご縁が無く多分どこか病気にでもならない限りはお知り合いになるとは思っていなかったので、ほぼ諦めていました。・・・・がしばらくして、何とそのお医者様の奥方からお電話を頂いたのです。

聞けば やはり、色々因縁のある土地らしく、過去に何社もこの土地を手掛けていましたが、成功した業者はなかったとのことでした。

何気なく手を付けたこの仕事が、私を地上げ屋への道に引きずりこむことになります。

思えば長い道のりの初めは 怖いもの知らず。

知らないから できた事です。。。

知っていたらやりませんでした。。。    

 のっぴきならない状況でも 逃げ出せないから最後までやり通しました。

ビジョンも何もなくて手を付けているから、苦労と収益が不釣り合いな慈善事業の様な仕事になってしまいましたが。

 

まず農地のこの上に 借地権の家が二軒建っていました。

相当古~い住宅、と言うより 申し訳ないのですがまるで空家の様な家が建っていました。こんもり木の茂った中の二軒の住宅は 町場の喧騒から離れた空間にひっそりと建っていました。

 

地主様はとうにこの土地の売却をご希望でしたが、昔からの借地人とのやり取りがうまくいかずにそのまま放置していたというのです。

勿論 売却には異存はありませんでした。

但し条件がありました。 この立ち退き交渉には一円のお金も手出しはしない事。

全て買主と借地人との交渉で賄うこと。後の売買契約後の現金のみ受領するという事でした。

 

ぼ~っとして聞いていました。

どこから手を付ければいいのか。

買主を探す?  立ち退きが先? 農地転用が先? 金額交渉が先?

とりあえず、絵を描く・・・?って言うんですかね。

会社の壁に仕事の順序を年表風に書き込み 一個ずつ塗りつぶす事にして まず 一軒目のお家から尋ねることにしました。

建物の謄本上のの持ち主は 恐らくもうこの世の人ではありません。

表示登記のみで保存登記その他一切の登記が無く 住んでいるのはその相続人の誰かだという事がわかりました。  聞けば中年の 男性二人が住まっているとのこと。

その昔 不動産業者が地上げの為に訪ねて行ったとき、そのうちのどちらかの男性が鎌をもって追いかけてきたと・・・。

鎌をもって追いかけられたら、多分私は間違いなくどこかでコケて殺されるだろう・・・。

何日か恐怖で考えこんでしまいましたが、船は岸をはなれたのです。

生唾ゴックンしながら、ある日私は思い切って藪を漕いでその家に入っていきました。

ちなみに、娘には「10分たって帰って来なかったら、警察に連絡するように。」と言い残して。

 

お天気の良い日でした。

外の世界から足を踏み入れた私の目に入ってきたのは、庭に咲く花々とにこやかな二人の兄弟でした。

見えないものに怯える・・・。なぜこんなに優しい兄弟がまるで恐ろしい鬼ヶ島の鬼の様に思えたのか。   ごめんなさい!彼らは心根の優しい体の弱い兄弟でした。

亡くなったお父さんの所有のまま手つかずの状態でしたがが、紆余曲折の末4人兄弟の二人から相続放棄をしてもらい兄弟で相続してもらいました。

しかしこれは、後の結果論でありこの時はこのお金の捻出先や 彼らの移住先はまだ見つかっていませんでした。

 

彼らと兄弟たちの意思表示を持っていよいよ引くことが出来なくなりましたが、移転先を探さなくてはいけません。

あと、一軒の住宅は所有者は隣町に住んでいて 借地権者が住んでいるわけではありませんでした。また貸しです。

この又借りしている住人は認知症を患っているお母さんにお父さん、上のお姉さんに妹と恋人、そのまた友達の居候ちゃん。  何より猫13匹と犬一匹。

もうこの時点で普通は諦めますよね。

建物の所有者は強面でしたが、訪ねた私の話を聞いてくれて条件が折り合えば立ち退いてもいいとの感触。  しかし、やはりこの住人の移転先を探さなくてはなりません。

「また借りさん」との話し合いはこれもなかなかで、移転してもいいけどまず病院の近くでなければならない。それと13匹の猫と一匹の犬を連れて行かなくてはならない。

家賃は今と同じで住宅の程度は今より悪くてはいけない。

 

もうこの記憶を思い出している時点でため息ばかり聞こえます。

あの時代の奇跡としか言いようのない出来事は、情熱だけが武器だったと・・・懐かしく思い起こしました。

少し休憩して、次回この続きを聞いていただけますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

痛い話

話は又戻りますが・・・・。

 

会社を立ち上げて間もなく、二つ目の試練が待っていました。

(一つ目は 保証協会とのトラブル)

お客様の相談に乗ったある日、深夜までに相談が伸びてしまい 真夜中12時頃になってしまいました。

当時の会社は 貸テナントで大家さんの賃貸駐車場が30台程面しており、すべてに車止めが置いてあり 帰りの街灯を消すと 全く何も見えない状況です。

 

お客様を駅までお送りする約束でしたので、急いで車に乗り込もうとした瞬間 足元を車止めに取られ そのまま すっ飛んでいき 「しまった!」 と思った瞬間に激痛が走りました。

車止めのコンクリートに打ち付けられた膝が 悲鳴を上げています。

 

事の重大さにまだ気が付いていない私はしばらく膝をさすりながら、その場で座り込みお客様と雑談をしていましが・・・。。

何分経っても痛みは収まらず とりあえず「駅までは何としてもお送りせねば!」と立ち上がりましたが、膝から下の自由が全く聞きません。

コンクリートの床をほふく前進しながら、何とか車までたどり着き「よっこイショ!」とアクセルに足を置きました。

時は深夜。  ご年配のお客様と二人だけ。

気が付いたら脂汗をかいています。 しかし、この時点では 時間がたてば痛みは収まると信じ込んでいましたから、気合を入れてアクセルを踏みました。

 

思いきりバックブレーキを踏んだ瞬間・・・ガツン!!!!!と乾いた音がしたと思ったら、駐車中の車に思いっきり突っ込んでしまいました。

この深夜 誰のものか不明の車に 当て逃げされたと思われるのも怖くて、お客様を駅に送り、深夜の交番に辿り着きました。

この頃は もう茫然自失。

交番の駐車場から中に 入る事が出来ず・・・再びほふく前進で這いながら交番に辿り着きました。中には 数名のおまわりさんがいましたが、まるでリングのさだこの様に入っていった私を凍った様に見つめています。

 

「奥さん!  どうしたの!」

「すみません!  今車ぶっつけたんですが、誰の車かわからないので、とりあえず事故の届を出させてください!・・・😢」

「奥さん・・・・。それより今救急車呼びますからそれが先ですよね」

「家には電話しないでください!  家族に心配かけますから」

「奥さんそれは無理ですよ! 電話番号教えて下さい!」

 

と言う事の顛末で、 5分後私は救急車の中にいました。

救急措置をして翌日撮ったレントゲンには 真っ二つに割れた半月板が写っていました。

駐車場の車止めの角の形に・・・真っ二つです。

夫は仕事があるからと、3日間顔も出しませんでしたが 悪気はないのです。

私はカサンドラですから。

 

何よりその時抱えていた 新築住宅は私の建築確認申請を待ってストップです。

困りました。

そこから、手術を経て 松葉杖でどうやら歩けるようになるまでの1ヵ月、会社は完全にストップしてしまいました。

松葉杖をつきながら娘の肩につかまって、パジャマのまま息も絶え絶えに建築確認センターに辿り着いたのは事故後10日程立っていましたが、ボルトで固定してある半月板は片道1時間の道のりに耐えられず車が揺れるたびに悲鳴を上げていました。

ホントに辛く長~い1ヵ月でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和残侠伝

急に渋い題名を付けました。

父の会社の倒産の話を前日にしましたが、 その時縁あって助けていただいた 忘れられない侠客のお話しです。

今は、半グレ、とか反社会的勢力とか言いますが 勿論これを容認するものでなく、彼らはこの世界から足を洗った集団でしたから、そのくくりには入りません。

 

当時ゼネコンの子会社で下請けをしていた父の元に、ある集団が孫請けとして入ってきました。

それは、ある大きな組織から足を洗った親分と子分の・・・失礼!社長と社員、最初は5人程度だったと思います。

父の会社の隣にアパートを借り 集団生活をしながら土木現場で働いていました。

彼らは、 拳銃や日本刀をシャベルやハンマーに代え手に豆を作って働いていましたが、やはり私から見れば強面の面々。

顔では笑っていましたが父を恨んでいました。

聞けば彼らは つい最近まで有名な武闘集団で ほとんどが刑務所から出てきたばかりの素人なりたてのほやほや。

そのうちに、刑期を終えた社員が、又一人・また一人と増えていき最終的には10人程度の大集団になっていました。

 

その中に、昔のヒットマン・・・抗争の中で、相手の組長を銃で襲撃して殺人未遂で刑を終えてきたばかりのOさんと言う人がいました。

この人は 社長さんが特に大切にしてきた言わば社長さんの為には命も惜しまない懐刀の元侠客でした。

この人だけが、(tatto) 入れ墨の入らない唯一の人で 無口な穏やかな人。

この人のどこにその様な狂気があるのかその当時はわかりませんでした。

 

ある日  父とこの社長との間にもめ事が生じていることを知りました。

些細な事だったと思います。

しかし、男を売って生きてきたこの社長さんにはどうしても引けない事があったらしく、ただでは済まない状況に追い込まれてしまったのです。

 

ある日の朝、母がこんなことを言いました。

「昨日、食堂で誰かが魚の料理をしたみたい。まな板の上に魚の血が乗っていてビックリしたよ。」

夕方まで食堂には誰も居なかったので、恐らく夜中の出来事らしいと母は話していました。

その日社長さんが父を訪ねてきました。

手打ちがしたいと。      私にはその筋の事はわかりませんが、何と昨夜oさんは、自分の小指を出刃包丁で切り落とし 社長さんに和解の願いに行ったとのことでした。

通常この世界では、小指を落として願った事を聞かない訳にはいかないのだそうです。

父は・・・多分・・・命を救ってもらったのだと思いました。

彼は落とした指の痛さが 詫びの印だと医者にも行かず、包帯一つで凌いでいました。

 

これの前後に父の会社は倒産し、昨日のお話の様になってしまいましたが、彼は最後まで残って債権者との話し合いに同席するなど、本当に良く尽くしてもらいました。

母の手造りの料理に舌鼓をうち、兄夫婦 私達一家とある時期家族同然に過ごした彼は、債権整理が終わったことを見届け 消息不明になりました。

何年か経ったある日、一冊の業界紙が我が家に届きました。

 

oさんが会社を興し 社会復帰をする人の為に尽力しているとの写真と記事でした。

心ならずも五体に傷を負わせてしまった事は その後の私達家族の心の傷となっていましたが ・・・今では知る人は私一人になってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしても納得できなかった!

まあ 法人立ち上げ早々の骨折事故は、自分の不注意から起きた事故でしたが・・・。

 

私はどうしても納得がいかなかったのです。  保証協会の事。

 

事の顛末は、一本の電話から始まりました。

銀行を通じて申請した県の企業融資にかかわる県の保証協会からの一本の電話でした。

私の父が経営していた 昭和57年に倒産した会社の債務が残っているので、この件をどうするのか協議したいので、出向いて下さいとの内容でした。

 

耳を疑いました。

かれこれ30年近く前の話で、父はとうの昔に他界しておりこの件は私に取って 解決済との認識・と言うより なかった事になっていたからです。

 

父が倒産した頃 私はまだ20代の後半 子供を育てているさなかに父の会社は倒産しました。

当時のお金で1億以上の債務があり。   両親に泣き付かれ夫は何件かの保証人になっていましたので 無傷ではいられません。

不渡りを出した翌日の父の会社は修羅場でした。

其の後 

高利貸しの債務は夫の実家の援助で返済し、私は夫の実家では針のむしろに座わらされていました。   当然です。

保証協会からの呼び出しには 母と兄嫁を伴ってその都度出向き、今出来る精一杯の送金を果たしてもいます。

 

其の後母は 高齢者施設の介護を住み込みで勤め上げ この送金は欠かさずしていたと認識しています。

後に母は病に倒れ 療養生活に入りいつの間にかこの送金は途絶えていたようです。

 

延滞利息を含め3500万円ほどに膨らんだこの債務を、30年も経って私に返済しろと言うのです。

誓って言います。

一度も催促は来ませんでした。

住所をくらましたこともありません。

 

担当者二人は 私を呼び出してこんなことを言いました。

「ご主人と 同じ釜でご飯を食べているんですよね~」

当たり前だ!

「それが問題なんですよ」

「債務を返済できない人と同じ釜の飯(めし・とは言わなかった)をたべている人に融資の保証は出来ません。  この債務完済をお約束してくれるなら、今回の融資の許可をすぐにでも出しましょう。何なら融資に上乗せして出しますよ。」

 

興してまだ半年もたたない けし粒の様なこの会社に 多額の債務を背負わせるというのです。

彼らの目的は この債務を眠りから復活させること・・・。さすがのおバカな私にも理解出来ました。

確かに、これは税金で賄われているものですから、当事者の責任は免れないでしょう。

彼らも 返済できるとは夢夢思ってはいないのです。

しかし、事の起こりは 放置された債務なのです。

 

「今日1万円でも入れて頂ければ すぐに融資の検討に入らせていただきます。」

さすがに1万円はもっていましたが。

この日の 会話のやり取りで、どうしても納得できないしこりが胸の中に生まれ 

保証協会の帰り道、私の足は弁護士事務所に向かっていました。

 

後日 保証協会の担当者と保証協会を相手に50万円の慰謝料を請求して裁判をおこしたのです。

新進気鋭の弁護士先生は 相手に不足はないと自身満々。私に取っては あの世に旅立った実父の倒産時の傷をえぐり出す苦しい2年間が始まりました。

裁判費用は大きかったですが、何より小さくても独立した法人と 倒産した会社の娘と言う個人の立場の混同が納得いかなかったのです。

言わば闇討ちをして「期限の利益の喪失」を盾に取り立てに入ろうとしていましたが、

何度も言いますが、私や私の会社に支払い義務はありません。

 

相手は4人の顧問弁護士を立ててきました。

筆頭弁護士は 経験の豊富なキャリア十分の先生と若手の弁護士さんでした。

内容証明のやり取りが何度か繰り返されて 最終弁論の日。

地方裁判所の法廷に立ちました。

傍聴席は、保証協会の職員で満席  私は二人の娘に見守られて出廷しました。

訴えた担当の彼は 今や英雄。  債権を蘇らせるための言わば禁じ手を使ったのですから。  彼らはこの裁判で多くの事を学ぼうと興味津々です。

裁判官は お若い方でした。

私の弁護士さんの弁論を聞き、私の話を頷きながら時にその禁じ手に驚きながら・・・

熱心に聞いて下さいました。

最終弁論が終わり 保証協会の担当者が頭をかきながら退廷したとき  「勝った!」と思いました。

 

1か月程してから 届いた弁護士先生からの一言は「残念ですが、負けました。

控訴しますか?」

からだの力が抜けました。

税金を払いながらその税金で雇われた弁護士に敗訴したのです。

結果 控訴はしませんでした。  取りあえず巨人に一刺しした蟻の様な存在でしたが、私の中の大きな経験になりました。

蟻は巨人を倒す事は出来ない・・・と。

 

其の後、 時効の援用  と言って正式にこの債務を支払う意思は無い事を公にして私の戦いは終わりましたが、二度と保証協会の利用は出来ずに今日まで至っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

決定的なミス

なけなしのお金を持って 法人を立ち上げました。

 

それまで勤めていた会社をを出るにあたっては、まあ大変なこともありました。

要らん苦労ばかりして、人間の本質が全く分かっていなかった世間知らずのおばちゃんは、予期せぬ「リーク」等にかく乱され 言わば悪人のレッテルにしばらくの間悩まされる事になりました。

 

時間は待ったなし。

 

しかし、私は決定的なミスをします。

不動産免許の申請にまつわる事です。

不動産営業の許可をもらうには、都道府県知事の許可が必要です。

許可を得るには 不動産保証協会の会員になるか、法務局に1000万円の供託金が必要です。

 

不動産保証協会の会員になるには、保証金60万円を供託しなければなりませんが、その他に、様々な手続や登録利用権利金として 総額180万円も必要なことが初めて発覚しました。

これを完了して初めて 県庁の申請が出来るようになるのです。

 

私の初期費用は 免許申請に掛かる60万円しか計算に入っていません。

その他に貸テナント賃料 テナント内の設備機器、内装、電話引込み・・・。

何よりも 免許申請後、許可が下りるまで何と2か月近い時間が必要でした。

 

最初の一歩から、つまずき始めます。

不動産免許の許可が下りるころには なけなしの資本金はあっという間に消えてなくなりました。

 

 

今考えるとどのようにこの危機を乗り越えたのか・・・。

 

今の時代の様に、起業する人への支援金などはほとんどなくて、それでも 何とか県の保証協会付きの事業資金を申し込むことになりました。

まだ私も若く、助けてくれる多くのお客さまに支えられて今日まできましたが、この後

私は思いがけない辛苦を舐める事になります。

 

県の保証協会が、私にこんな事を言ってきました。

あなたのお父さんの履歴が残っています。

ご融資をするにあたって、この債務をどうなさるのか当協会においで頂いて話し合いをしましょう.と。

 

とうの昔に亡くなった父の、その昔倒産した時の履歴が30年もたって出てきたというのです。

残債が、確か元金が4~500万円だったと思います。

30年分の滞納金を併せて3500万円くらいになっていました。

 

この債務を 立ち上げてまだ半年にも満たない私の会社に肩代わりをしろと言うのです。

この顛末は又お話ししますが、この最中 私は会社の駐車場で転倒し足の骨折。

全治2か月のけがをして、入院生活を余儀なくされました。

 

万事窮す。

世間の風は木枯らしでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

夫の事・最後の遺言

毎日 テレビから流れるウクライナの話。

今日は ロシアがウクライナの歴史的建造物迄破壊し始めて居るとのこと。

う~ん・・・。

ロシアって ストーカー親父のようだ・・と  思いました。

別れた女房が もう嫌だ!離婚してほしいと言っているのに、聞く耳を持たず 女房の逃げた先まで追いかけてきて なけなしの家財道具までぶち壊して帰っていく暴力亭主。   まさにこれです。   もう元には戻れないのに・・・。

 

世間にはこんな男も多いらしいと聞きます。

でも 4年前に亡くなった私の夫は、これとは真逆の人でした。

この一か月の私のブログをご覧いただいた方にはお分かりいただけると思いますが、どの場面にも出てきません。

 

45年連れ添って いただいた?・・この夫は無色透明で私のどの場面でも出演していただけませんでした。

 

私の名前はカサンドラ  でお話ししましたが、彼はいつもマイペースで誰にも煩わされません。

誰の邪魔もしません。  そして私の孤軍奮闘も趣味でやっていると思っていたに違いありません。

ひたすら 自分の仕事に誠実に向き合い 残った時間は家庭料理に目覚め家族の為にいつも美味しい料理を提供してくれました。

これが彼の愛情の表現だったと今は思います。

 

亡くなるまでの4年の闘病生活は 長く苦しいものでした。

食道がんが見つかって、その後転移が見つかり苦しい日々でした。

亡くなる20日前から 「終末期鎮静」と言う特殊な薬で言わば安楽死の様なものですが、眠り続けて逝きました。

私は、闘病記などを書こうとは思いません。しかし、45年間の私達夫婦の歴史を一瞬で無かったものにしてくれた 病院のこの失態は糾弾されてしかるべきものだと思います。が、今頃そんな事を言っても自分が苦しいだけです。

 

先端技術を誇ったこの病院は、「最後に夫を安らかに眠らせてあげましょう。」と言いました。

「夕べは耐え難い痛みが襲って来て、もうこれ以上苦しめるのは得策でない」と。

 

病室の夫は、さっきはにこやかに笑っていたのに・・・。

 

夫が余命を宣告されたのはつい二週間前の事で、夫もそれは覚悟をしていました。

自宅で最期を迎えたいとの本人の希望で、私達家族は八方手を尽くし夫を迎える準備をして、正月明けの4日に退院させるつもりでした。

 

何か月も夢に見た自宅での生活に僅かな希望を持っていたのに・・・。年末の22日の朝、突然主治医からそれを告げられ 不意打ちを食らった私は、医師の差し出した承諾書にサインをしてしまったのです。

 

「永遠に眠らせる悪魔」の書類です。

勿論人によってはこれが救いとなって安らかに逝ける人もいます。

しかし、これが私を一生苦しめることになってしまいました。

病院では私のサインの書類を、コピーを取って私に返すつもりが、何かの手違いで夫の手に返してしまったのです。   終末期鎮静を使用する事の同意書。

夫に告げずに悪魔の書類にサインをしてしまった私。 泣き顔を見せられずに病室に戻れなかった・・・私の弱さがこんなことになってしまったのです。

恐らく夫は絶句して書類を見たに違いありません。

高速道路1時間の帰り道、どんなふうに帰ったのか覚えていませんが、自宅に帰り着いた頃夫から電話がありました。

「どうして帰ってしまったんだ?。  書類は手元に戻ってきている」・・・

!!!!!。

何たる不始末。これが一流病院のする事か!  いや二流病院だったかも知れない。

 

この一本の電話で45年間の私たちの二人三脚は「終わった!」  と思いました。

12月28日 その日の朝、 病院に辿り着いた私に主治医は「夕べは苦しんでいましたよ。」

「もう耐え難い痛みが来ています。  今日実行します。」  なぜ何も言えなかったのだろうか?

夫は今娘たちと楽しそうに笑っているではないか!

「この終末期鎮静を打てば 通常は2~3日でお亡くなりになります。」

今思えば 年明けは主治医もお正月休みだったのでしょう。助かる見込みのない患者の為に正月を棒に振る事は出来なかったのでしょう。

病室に戻った私の後ろを 看護師さんが付いてきました。

準備されていて 私の到着をまっていたようです。

用心深い夫は 看護師さんの点滴の形が気になったようで、不思議そうに見ていました。

娘たちは父親との残り僅かな時間を惜しんで話し続けています。娘たちにも今ここで起こることは伝えていませんでした。

 

夫の点滴に 悪魔の薬が投入したとたんに 夫は崩れるように倒れていき・・・眠り続け・・・。

明けて1月11日の午前11時 力尽き果て 天上に旅立ちました。

どこにも別れはあります。

必ず誰にも訪れるものです。

でも、この病院の許されない失態により私は残った人生を悔いて生きることになりました。夫を殺したのは私だ。と

 

 

しかし、夫は最後まで笑わせてくれます。

余命宣告をされてから、一度くらいは「長い間 ありがとう。」とか「感謝している」とか、嘘でも言ってくれると思っていましたが。

そうです。私はカサンドラだった !! のです。

 

最後の言葉は  「ぬか床捨ててくれ!」  でした。

台所を放棄した私の代わりにいつも美味しいぬか漬けを食べさせてくれていましたが、自分が死んだら誰もぬか床の手入れが出来ない と。

最も大切な遺言は 娘たちに伝えられました。

最後まで カサンドラな私でした。

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マーシャル諸島 ヤルートにて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はこれで会社を辞めました・・・。

当時勤務した会社の社長さんは 若くて新進気鋭のハンサム社長さんでした。

 

辞めるに至っては 皆さん少なからず御経験もおありかとおもいますが。

私の側から見た主観であって、一方的な意見を書かせて頂きます。

 

会社が喜んで辞めさせてくれるような人間にはなりたくありませんが、退職までには山や川がたくさんありました。

新進気鋭のその会社は 言わば破竹の勢いで伸びていきました。

伸びしろの沢山ある会社で、地域ではそこそこ知られる中堅になっていたとおもいます。

やり手の若い社長さんと右腕の専務さん、それを取り巻くフアンクラブ・・・というか行き場の無い訳アリ職人がいつもたむろしていました。

 

今までに経験したことのないカラーの世界に踏み込んだおばちゃん営業は、やがて社長さんとの間に埋めようのない軋轢が生まれてきます。

 

当時は私も 一年間で相当の棟数を稼ぎ出していましたので、会社から見れば「立派な意見を言う・・・」鼻もちならないおばちゃんになっていたとおもいます。

まず、出入りの人間を選別してほしかったのです。

破産した人、偽装結婚で戸籍を売った人、裏社会から出てきた人。愛人と本妻の二重生活をしている人。

 

まあ私も相当訳ありで入って居ますから、立派な事は言えませんが何か居心地の悪さをかかえていました。

「あなたがあるから、仕事がもらえるのではない。 会社があるから仕事がもらえるのだ。」と鶏と卵の理論で良く注意をされていたものです。

しかし、私の違和感はこれは生理的な何かであって・・理屈では説明できない何かを肌で感じていました。

 

一生の買い物をするお客様に、一生を掛けて全力で応えたい・・・この思いが空回りを始めました。

自分がそうだったように、人生をリセットする伴走者になりたくて 利益より顧客優先で 経営陣と対立することが多くなり・・・次第に私は煙たがられるようになりました。

 

まあ経営者と使用人の考え方はどこまで行っても平行線なのですが。

そして、私の肌で感じた違和感は、ある日実感となって目の前に現れてきました。

 

まだ若かった社長さが、健康を損なったのをきっかけに会社の中の空気が少しずつ変わり始めてきたのです

詳細は控えさせて頂きますが、会社経営の方針が変わってしまったのです。

まあ・・・どんな?・・・

深層に眠っていた隠れた部分が表に出てきたという事でしょう。

 

まあ色んな社長さんの経営方針がありますが、私はこれは付いて行く事が出来ないと判断したのです。

退職する人のありきたりな理由ですが、その時はもうこれしか道がないと思い込んでいました。

 

まあこの日から、半年の間住宅建築を抱えながら、ここからどうするのか!・・・。

悩みに悩みその年の年末、遂に退職をすることになりました。

もう、恐らく私のこの考えではどこに行っても経営者とそりが合う事はないだろうと悟っていましたので・・・・

なけなしの資本金をもって会社を興す事に決めました。

50歳6か月・・・羅針盤のない旅を又始めることになったのです

 

私の退職後6年でこの会社は倒産しました。

 

 

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マーシャル諸島ミレ島にて