designershome’s blog ~デザイナーズホーム~

専業主婦から不動産・建築の会社を起業したおばさんの話

戦後生まれの終戦記念日

8月15日

終戦記念日に思う事。

終戦の日から 8年後に生れました。

貧しいけれども幸せな子供時代を過ごしました。・・・・が。

当時山村の小さな村にも 戦後は色濃く残っていました。

昭和30年代の事です。

戦後生まれの子供たちが ひしめき合って小さな教室は一クラス55人と言うマンモス教室です。

 

当時は知らなかったけれど その中に「開拓」と言う村落があって 何故かこの村の子供たちは そろって鼻水を洋服の袖で拭い どの子も勉強が苦手でした。

 

私の育った集落は 農村地帯で 比較的戦時中も食糧難で亡くなる・・などという事はなかったようですが、開拓の子供たちはどの子の家も食べるにも困って居た様でした。

 

学校にも来ない子供たちも沢山いて 先生たちも困って居たようですが 当時の私には理解することが出来ませんでした。

 

実は 荒れ果てた開墾地を耕すための働き手だったようです。

当時の私たちの遊びは もっぱら親の名前を連呼して相手をからかう・・・とかつまらないものでしたが、 何故かとても楽しかったのを覚えています。

 

ある日 開拓から来る同級生の男の子に いつもの通り 親の名前を言ってからかいました。

その瞬間 すごい勢いで「パンチ」が飛んできて 目から火が出たのを覚えています。

彼の保護者は お母さんの名前でした。

 

いつも教室の隅で 暗い目をしていた男の子でした。私は仲間になりたくて声をかけたのです。

悔しくて 自宅に帰って 母にこのことを告げ口した時 母はこんな話をしてくれました。

彼のお母さんは 中国大陸の引揚者で、着の身 着のまま実家にあるこの村に帰って来たそうです。

彼は戦後生まれなので お父さんがどんな事情でいないのかは分かりませんが。

実家にはもう彼ら一家を養う人は居なくて  実家の 離れの物置の様なところに 2~3人の兄弟とともに暮らしていたそうです。

 

このお母さんがどんな気持ちで 子供たちを育てたのか、察して余りあります。

彼がどんなに母親が好きで 親孝行したくて頑張っていたのか・・・後で分かりました。

そんな時 たった一人の大好きなお母さんの名前を 不用意に遊ばれたことに腹が立ってのパンチだったと思います。

痛かったですが、勉強になりました。

 

彼は勉強も良くできましたが、中学卒業とともに東京に就職して行きました。

私自身も父の事業の失敗で一家離散して 故郷の友人と連絡を取ることもなく 彼の消息も知りません。

 

当時  私の苦手な女性の先生も 大陸の引揚者で やはり開拓から来ていました。

冷たい顔が嫌いで 話すこともありませんでしたが、あることがきっかけで、小学校6年生の私に心温まる お手紙を頂きました。

NHK全国合唱コンクールの地域予選を1位で通過して 県のコンクールで優秀賞を取って新聞にデカデカと乗ったその時の指揮者をしていたからです。

涙の出るようなお手紙でした。

その後その先生は 本を出版されています。

それは、中国大陸を子供を連れて逃げて帰る時 背中で長男が餓死(又は凍死)をした話でした。

確か 大連の駅だったと記憶しています。

わが子が 背中で死んでいると知った時 私なら何が出来るでしょう。

先生は 大連の駅の脇の凍った土を手で掘り起こして 埋めて「きっと迎えに来るから」と泣きながら 日本に辿り着いたというのです。

 

多感な小学6年生の私には 心に刺さったような戦争の傷跡でした。

その先生にももうお会いすることなく私も郷里を去っています。

 

戦中戦後のこの手の話には 事欠きませんが・・・どの話も 国民一人一人が悲しい宿命を背負った事に間違いはありません。

 

言いたいことも沢山ありますが。

国民ですから、この国の行く末を見なくてはなりません。

明日にも起こるかもしれない戦争に、世界中の戦争に、ひたすら、平和を願って今日の終戦記念日を送りたいと思います。