すみません!。
めっちゃ古い話で、私がまだ生まれていなかった頃からの流れです。
ユーチューブで 何気なく「野麦峠」と言う有名な映画の古い画像を見ていました。
大竹しのぶさんの主演です。悲しい映画でした。(実話です)
見ているうちに、なにか不思議な懐かしいような・・・どこかでお会いしましたっけ?
という思いに至りました。
確か、私が生まれるず~っと前に亡くなった母方の伯母の話を思い出したのです。
伯母の名まえはあや子です。このあや子伯母の話を聞いてください。
時代はこの野麦峠の時代の少し後。
大正10年生まれでした。(急いで戸籍を確かめました。)
東北の山村で 戦後生まれた私にあった記憶は 古びた自宅の茶の間の柱にあった1台の柱時計です。
毎日祖母が朝と夕方 ネジをギッコギッコと巻いていました。
農家の茶の間には少し不似合いな立派な六角形の黒塗りの時計です。
祖父母は何も話しませんでしたが、母から聞いた話によれば、 これは伯母アヤコを
売ったお金で祖父が帰り道 お土産として買ってきたものらしいです。・・・・・・・。
時は昭和の初めと思われますが、伯母は恐らく10代で売られたと思います。
キューポラ。 鋳物工場の煙突のことですね。
ここに、祖父に連れられ 工場に売られました。
年季奉公だったのかどうか分かりませんが、恐らくここで死ぬ程働かせられたに違いありません。
母の話では 何度か里帰りがあったそうです。 とても美しい伯母だったようで、親衛隊の様な女の子が付いて来ていたようです。
小学校迄 母を迎えに来てくれて早引けさせて、自宅まで歩いたことが母の唯一の思い出だったようです。母は「あねさま」と言っていました。
「姉様は とってもいい匂いがして 東京の匂いだって思った」そうです。
赤貧と言うのでしょう。
戦死した長男の伯父は(タラワの戦いで亡くなりました)幼い頃から近所の庄屋の家で年季奉公に出ていて1年に1俵のコメと引き換えです。18歳で海軍に志願して20で戦死しました。
長女のあや子は幼くして 川口の鋳物工場に売られました。
祖母は泣いて頼んだそうです。娘を売る事だけはやめてくてと。
しかし、これもよくある話で祖父は働きません。
仏の様だと言われていたようですが、 確かに仏の様に動きません。私の記憶ではいつも囲炉裏の上座で 煙草をふかしていましたが、起きているのか、寝ているのかわかりませんでした。
妻や子を働かせて 自分は煙管煙草をふかしているような祖父です。
しかも、この祖父は北海道で砂金堀りに狂っていました。
まあ~ギヤンブル中毒ですね。
水も飲めない赤貧農家で 北海道に行くには売るものは娘しかいなくて とうとうそんな事を強行してしまったのです。
事もあろうか、帰りの道すがら 柱時計をお土産に買ってきたというのです。
祖母はどんなに悔しかった事か。
後日 私の母に「柱時計が鳴るたびに あやこが泣いている・・・と思った。」と話していたそうです。
このお金は 家族の食料にも暖にもならず、北海道の砂金堀の旅に使われて、スッカラカンになって戻って来たそうです。
その後 姉様はどうなったか・・・と言うと 当時はやりの?肺結核になって返品?されたそうです。
今と違って肺結核は死の病です。
ボロボロになった姉様は実家の離れの藁の上で寝かされていたようです。
この前を通る近隣の人たちは鼻をふさいで通ったらしいです。何しろ伝染病ですから。
末期になって いよいよ療養所に入るのですが、何しろ結構な美人だったようで、たちまち病棟の妻子持ちの男性と恋に落ちて、大分すったもんだしたそうな。
引き離しても引き離しても 彼の所に逃げて行って、祖母はこの病気の姉様を連れ戻しては殴り続けたそうです。
藁の部屋に戻って監視付きの姉様に 祖母は当時結核に良く効くと言われたマムシや蛇を煎じて飲ませていました。
いよいよ 残り少ない姉様の人生に あるとき一人の男性が嫁に欲しいと言ってきました。
恐らく結納金でも持ってきたのでしょう。
ひどくブ男だったらしいのですが、昔からあこがれていたあや子さんをどうしても嫁に欲しいとのことで・・・。
彼は 姉様を背負って、リヤカーに乗せて連れて行ったとのことです。
間もなく姉様は亡くなりました。 私が生まれてからは、誰も姉様の事は口に出しませんでした。
只近所のおばあちゃんから良く 私が あや子ちゃんに似ているなどと言われて私の伯母の名まえだという事は知っていました。
勿論私は 伯母には似ても似つかない不細工でしたので 本当に似ているとはおもいません。
祖母が病床に臥せって 死の間際によくうなされていたのは覚えています。
「枕元に 蛇がいる! 何匹もとぐろを巻いてにらんでいる!」と。
後に母から 姉様の一生を聞き、 この蛇のお迎えも納得しました。
祖母はずっと苦しんでいたのでしょう。
誰も知らない 伯母の悲しみを残したくて 私は次女が生まれた時 「あやこ」と名付けました。